お種弁天

多鯰ヶ池弁天宮(お種弁天)

多鯰ヶ池弁天宮(お種弁天) たねがいけべんてんぐう(おたねべんてん)は多鯰ケ池の湖畔の(元大島)うっそうとした森の中にある。文によると、江戸時代の末以前に「相州江の島弁財天から分霊」されたと伝えられている。

日本三大弁財天・・・江島神社(神奈川県江の島)

竹生島神社(滋賀県竹生島)

厳島神社(広島県厳島)

現在参拝者は地元の崇敬者、鳥取市内の商売人、砂丘観光客などが特に「巳の日」には生卵やお酒をお供えしてお参りしている。

元々弁財天とは琵琶(楽器)を抱えた、美と知恵と音楽の神様とあがめられ、芸術を司る神とされています。
七福神の中の紅一点の女神ですが・・・・・何故巳の日に生卵をお供え?


弁天宮の成り立ちを伝える石碑
(弁天宮社務所横にある石碑)

 

お参りコース
弁才天と水神
弁才天はもともと河川の神=水の神という性格があったが、この性格は日本にも受け継がれている。日本三大弁才といわれる竹生島(滋賀県、琵琶湖)、江の島(神奈川県)、厳島(広島県)などはいずれも水辺に祀られている。
弁才天を水の神とする考えにより水辺に社が造られた。

弁才天と蛇
水神の使いは蛇とされ、そこから弁才天の縁日が巳の日となっていったという。また、サンスクリット語ウガヤが、蛇を意味するサンスクリット語ウラガに似ているから、弁才天と蛇の関係が生まれたとする説もあるが、定かではない。

蓄財の神・弁財天
縁日の巳の日に弁才天にお参りし、御礼をもらうと財産を得る事が出来ると宣伝されるようになり、今度は蓄財の神として信仰されるようになる。そうなると、もともと弁舌の女神なのだから「弁才天」と書くのが本筋だが、それでは雰囲気がでないので「弁財天」と書くようになったのである。

まさしく「多鯰ケ池弁天宮」は池の湖畔に位置し、蛇を神様とし、商売繁盛を祈願のため「生卵やお酒」をお供えしているのもうなずける。





お種社のお参りの仕方
お種社はパワースポットです。
巳(み)の日に弁財天の遣いである白蛇に願い事をすれば、その願いが弁財天に届けられると言われており、「金運・財運」にまつわる縁起のいい吉日の一つとされてます。
また、60日に一度やってくる己巳(つちのとみ)の日という日は、巳の日のなかでもさらに縁起のいい弁天様の縁日です。
「巳の日」「巳己の日」(イベントカレンダーを参照)は午前8時30分~12時まで社務所を開けていますので是非お越しください。
巳の日のご利益
・弁天様へのお願いごと
・弁天様や白蛇を祀っている社へのお参り
・財布の新調(お金との縁が保たれる)
・宝くじの購入など


時計回り(右回り)に3回回りし、1回ごとに
同じお願いことをします


 

 

多鯰ケ池にまつわる伝説

昔々、長者さんの元に新しい使用人としてお種という女性がやってきました。夕方、使用人たちでだべってる時に誰かが「腹減った」「うまいもん食いたい」と言うと決まってお種さんが甘い柿の実を持ってきてくれます。
最初はうまいうーたら言ってたのですけど、そのようなことが何度かあると「柿、出過ぎじゃね?」と疑う者も出てきます。そこである時、お種さんをつけてみることにしました。
するとお種さんは池の畔で白蛇に変身し、池の島へと渡るとそこの柿をもいでいたのです。驚いてそれを長者に報告すると、それ以降、お種さんが戻ることなく多鯰ヶ池の主となったそうな。
そして、長者の家に住んでいた老婆がそれを憐み池の傍に荒神さんの社(現在のお種社を建てて祀ったそうです。

 

くぐり池伝説

兵庫県新温泉町多子の「字池の上」という所に、「くぐり池」と言う三畝ほどの池がある。
この池は鳥取県の「多鯰ヶ池」につづいていて、「くぐり池」につけていた洗い物やひょうたんがいつの間にかなくなり失った物が「多鯰ヶ池」で見つかることで不思議がられていた。その「くぐり池」の近くに住む娘がいて、あるときそこを通りがかったお坊さんを一目見て好きになり、お坊さんも娘を心憎からず思った。けれども、お坊さんは修業の身、とても娘と一緒になれず、娘はそれを苦しんで池に身を投げた。ところが、お坊さんも池に身を投げた。村人は二人を哀れんで池の端の道にお地蔵さんを祀って供養した。「くぐり池」には、春になると、アヤメや、でべそ花という黄色い美しい花が咲く。大雨が降っても、晴れた日が続いても池の水かさは変わらず、照来の七不思議の一つに数えられている。

神功皇后伝説
神功皇后が三韓征伐の際、都へ戻る途中にこの地(福部浜湯山)に舟着場とした伝説。
以下伝記は地元の「彌長神社」の祭神として祀られ、奉納絵馬に書かれている伝記です。

 

神功皇后御伝記

息(おき)長足(ながたらし)姫(ひめ)尊(のまこと)と称え奉る。
日本紀元八五三年癸(みずの)酉(ととり)第十四代仲哀天皇の皇后となり給う。
八五九年天皇熊襲(くまそ)を討伐のため筑紫(つくし)に赴き給う。
この時新羅(しらぎ)征伐の神のお告げがあったが天皇はこれを信じないため熊襲に破れ給う、
八六〇年庚(かのえ)辰(たつ)天皇は神の怒にふれて崩御(ほうぎょ)し給う。
この年皇后男装して新羅討伐に向かい給い新羅降伏して貢物を呈す
高麗(こうらい)、百済(くだら)二国も貢物を捧ぐ皇后帰国し誉田(ほんだ)別(わけの)皇子(おうじ)後の応神天皇を生み給う。
八六一年辛己皇后を皇太后と称しこの年を 政(せっ)元(せい)年とする。
八六三年癸(みかの)未誉田(ひつじほんだ)別(わけ)皇子を皇太子とし都を大和の磐余(いわれ)に造り給いこれを若桜宮と申す、九〇七年丁(との)卯(とう)
新羅は百済の貢物を奪って献上したため千熊長彦を新羅に遣わしてこれを責め給う。

 

九〇九年己巳(つちのとみ)将軍を遣わして新羅を討ち給う。
九二二年壬(みかずき)午(うま)新羅貢物を呈しないため将軍を遣わしてこれを討ち給う。
九二五年巳(つちのとうし) 皇子后崩御し給う御歳百才政(せっせい)し給うこと実に
六九年間。
この地は極(きょく)目昿濶(もくこうかつ)眺望絶佳渺茫(びょうぼう)たる日本海の青波を望み水天彷佛(ほうぶつ)一衣帯水の彼方に朝鮮半島あり古代は大陸との交通の要津であったという。
これが皇后新羅征伐より帰国の際の船着場として口碑(こおひ)に残る
所以である。

(皇后の伝記は日本史による)