多鯰ケ池の概要

概要
・池の周囲:3.4Km
・池の面積:24.8ha
・最深部の水深は15.1m(沖の御前島の西方)中国地方最深の池
・湖面の海抜:約16m
・池の透明度:3.4m
・池内の島:小島、磯の御前島、沖の御前島の3島
・池の生物:エビ類、コイ、フナ、ナマズ、ワカサギ、ドジョウ貝類(カラスガイ、イシガイ)
・現在ではオオクチバス(ブラックバス)が繁殖

 

池の成因・地理
・約10万年前頃に、背後の丘陵前面の浸食谷に古砂丘が発達、その上を約5万年前の大山火山の活動で噴出した軽石が覆って、水が浸透しなくなり山地と砂丘地の凹地が古砂丘によって堰き止められてできた、堰き止め型の池。現在では山陰最古の堰止湖ということになっている。池には流出入河川はなく雪解け水、雨水、湧水などで蓄えられた水のみある。

 

池の名前の由来
池には小島・磯御前島・沖御前島の3島があり、小島には「お種の伝説」で記された柿の木があったとされる島です。名前の由来には、いくつかの伝説があり、一つは国府町長者の一人娘、「種」の悲哀物語。もう一つは伊藤土屋という長者に雇われた「多弥」という美しい女性の話。どちらも女性が白蛇の姿で池を泳いだという共通点があり、当時は「種ケ池」あるいは「多弥池」と呼ばれ、現在は「多鯰ケ池」と呼ばれるようになった。森中に弁財天を祀る祠がある。この大島は 70~80年前は池中に孤立した島であって,砂丘の岸に立ち投石するに容易に達せざるほどの遠距離にあり、この頃は対岸から船で渡り参拝していた。

 

池の埋積状況

大島の森中に弁財天を祀る祠がある。この大島は70~80年前は池中に孤立した島であって,砂丘の岸に立ち投石するに容易に達せざるほどの遠距離にあり、この頃は対岸から船で渡り参拝していた。今でも当時の船着き場の階段跡が残っている。

 


しだいに砂丘発達で,40~50年前には橋を架して弁財天社に参拝せしに,今日にては飛砂の進行発達のため大島の大半は被われ陸續となった・・・」。その他若干の記録があるが,それらも踏まえて,過去200年間の多鯰ケ池の変遷を表1に示した。このように,多鯰ケ池は江戸時代の後半から明治期にかけて急速に埋積されたことがわかる。

 

多鯰ケ池を利用した湯山池の干拓事業
・湯山池の干拓事業に利用されたのが湯山池の西にあった多鯰ケ池である。当時、峠によって隔てられている湯山池と多鯰ヶ池は水位が同じであると考えられていた。宿院義般は自ら「宿院式測量機」を考案、これによって離れた場所にある両池の測量を行い、多鯰ヶ池のほうが湯山池よりも約16m水面が高いことを発見した。

・宿院義般は、峠を穿つトンネルを掘って多鯰ヶ池と湯山池を繋ぐ水路を造り、落差を利用した多鯰ヶ池からの水流で砂を押し流し、湯山池を砂で埋め立てて干拓するプランをたてた。トンネルは多鯰ヶ池の水面下3.6mの水準で、幅・高さともに約1.8m、全長385mのトンネルを造営。

・宿院義般らはトンネル工事のため、生野銀山へ行って坑夫を雇い入れた。工事は1859年に始まり、トンネルは1年あまりをかけて完成した。この時点で完成したのは約半分の20町歩(約20ha)だった。一連の工事の総工費は2200両あまりにもなった。

 

 

約1700年前、縄文~弥生時代の湯山池想像図 (神功皇后が二ツ山山麓に陣をはったされる伝説の時代)

 

約350年前、江戸初期の湯山池想像図 (寛文年間 1661~1672年因幡民族記・郡郷部に記載分に基づく庄域図参考)

 

約150年前、明治初期の湯山池想像図 (因幡佳景無駄安留記に基づく)

 

約110年前、明治42年の湯山池想像図 (150年前頃から始めた湯山池干拓事業の干拓に基づく)

 

現在(平成)の湯山池のあった付近地図

 

 

 

暗渠区間の位置と取水口